医師 vs 歯科医師(1)  (歯科の変遷)

  明治以降、歯学部は医学部と同様に歩んでおり、大学での教育期間は医学部と同じ6年間で、カリキュラムも医学部と非常に良く似ている。教養科目と基礎系科目はほぼ同じだが、基礎系科目は、医学部は分子生物系、歯学部は理工学系の科目の占める割合が多い。歯学部では、臨床系科目は頭頚部と口腔領域に特化されているが、一般の医科系科目も学ぶ。医学部と歯学部は組織、権力争い、講座内のピラミッド型の階級構造なども似ている。両方とも一般的には「医師」と呼ばれるわけだが、医師は歯科医師を「医師」とは認めていない。そして医師と歯科医師の対立は明治から現在に至るまで続いている。

 元来、歯学教育は医学教育の中で行われていた。明治16年に制定された医師免許規則で歯科の試験科目が医科とは独立して設けられ、この試験の合格をもって歯科医院の開業が許可された。明治の時代から、歯科医師の教育制度や歯科医業の範囲について二つの意見があり、議論がなされてきた。一つは、明治28年に日本医事週報主筆の医師、川上厳華が掲げた医歯一元論である。歯科は眼科や耳鼻科などと同じ医科の一分野であり、歯科医師は医学を一通り修めた後に歯科を専修するのがよい、という意見だ。当時のヨーロッパにおける歯科医学に対する考え方であり、日本医学界の意見であった。もう一つは、歯科医師である血脇守之助が提唱した医歯二元論である。医学については概要を学び歯科については深く習得するのが良いという意見だ。当時の米国の考え方である。血脇守之助は、日本で最初の歯科医学専門学校として明治23年に開校した私立の高山歯科医学院を卒業した。医学を修めた後に歯科を修めるのは時間がかかりすぎるので、歯科の志望者が激減すると考えたのである。

 歯科医学教育に関して意見が真二つに分かれたのは医師と歯科医師の対立が原因であるが、もうひとつの背景として、高度な西洋式の医学教育を受けたエリート医師と従来の漢方医の対立があった。大学で医学教育を受けたエリート医師は「医師会のメンバーは、高度な教育を受けた医師で構成されるべきである」と主張しており、漢方医は医師会の会員を拒否されると開業が難しくなる可能性があった。漢方医は医学教育を受けずに見習いから身を起こした者がほとんどであったが、当時の医師の大部分を占めていた。歯科医師に対してはさらに厳しい開業条件を要求してくる可能性が大であり、危機的な状況が迫っていた。  

 明治26年に医学教育を受けた約3,300名のエリート医師によって大日本医会が結成され、明治30年に医師法案が衆議院に提出された。この当時、まだ医師法はなかったのである。内容は大きく二つであり、①医師免許は医師国家試験の合格者と医学部卒業者に与えるべし、②医師会は各都道府県に設置し、加入者以外は患者を診察できないものとする、であった。これは漢方医を医師ではないとみなすものであった。この法案は衆議院で可決され、貴族院参議院)で否決された。医師法にはもう一つ案があった。明治32年に東京帝国大学医学部出身者で結成された明治医会の医師法案である。この案は、医師を少数のエリートで固め、かつ歯科医師を排除する内容であった。法案の第1条に「歯科医師には法の規定を適用せず」との記載があり、歯科医師を完全に否定していた。この明治医会の中心的人物の1人が森鴎外であった。

 余談であるが、森鴎外は明治時代の作家として有名だが、本職は軍医で作家は副業であった。「嫉妬の世界史「(山内昌之著 新潮新書)によると、この森鴎外という人物は、誰かの成功や栄光を憎む嫉妬深い性質であったようだ。そのため、他人への度を越した反撃がしばしば行われた。

 歯科医師は全国で約600名程度と非常に少なかったが、明治医会の歯科医師排除の動きに対して敏感に反応し、全国的な組織を作って政治的な力を強めるために結束した。明治36年には日本歯科医師会を発足させ、歯科医師法案策定に向けて議論を始めた。議論を始めると、歯科医師を医師に含めてその身分を医師法において規定するのか、医師法とは別に歯科医師法を策定するのか、という医歯一元論二元論で紛糾した。結局、明治39年に医師法歯科医師法が公布され、歯科医師の身分が医師とは別に規定された。歯科医師の免許は文部大臣の指定する歯科医学校を卒業した者、歯科医師試験に合格した者に対して与えられることとなり、医師とは全く独立した免許となった。

 しかし、医師と歯科医師の対立は続いた。歯科医師法は歯科医師の身分を確立した法律であったが、医師による歯科医業を禁じる条項はなく、歯科医業を行う医師は増え続け、歯科医師と紛争を起こしていた。当時は歯科医師も少ない上に、虫歯が多く、医業よりも歯科医業のほうが儲かったのである。明治40年に、大陪審は、歯科は医科の範囲内であり歯科医師免許を持つ者は普通の医業はできないが、医師免許を持つ者は歯科医業ができるという判決を下した。こういった現状に反発した日本歯科医師会は医師の歯科医業を禁ずる医師法の改正を再三にわたり政府に訴えたが、医師会の猛烈な反対運動によってなかなか進展しなかった。大正5年に、医師が歯科の診療行為を行うには内務大臣の許可が必要だというところまでこぎつけた。歯科医師会はその後も努力を続け、歯科医師の身分を医師から守るために歯科医師法を改正させた。大正14年の改正では、歯科専門を標榜する医師は歯科医師とみなされ、歯科医師の死亡診断書の作成も認められた。

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