アンケート三昧の大学

 医学部も含めて最近の大学は学生に対するアンケートが多い。前期・後期の講義の終了後に行う授業評

ためのアンケートの他に入学試験の面接官の態度を問うアンケートもある。教員のランク付けのためのアン

ケート(人気投票というべきか)を行っている大学もある。文部科学省規制緩和で大学の設置・運営の自由

度が広がると同時に、自己点検・自己評価が義務づけられ、大学経営の自己責任への転換が図られている

からである。各大学では教員の質を上げて大学の評価を上げるために、様々なことに取り組んでいる。その取り

みの中で重要なのがアンケートである。授業評価アンケートの回答から点数が算出され、各教員は自分の

義の評価がどの程度か知らされる。評価の良かった教員にはボーナスなどの上乗せ、逆に悪かった教員には

ボーナスなどの減額を実施している大学もある。教員の任期制を導入している大学では再任の可否の判定

材料ともなる。

いずれのアンケートも学生側からの一方的な意見である。教員がまじめに教えても、何日もかかって資料を作成しても、学生に気に入られなければ点数が悪くなる。学生受けのするおもしろおかしい講義をすれば点数があがる。米国では、アンケートで高得点を獲得した教員を揶揄して「ピエロ先生」と呼ぶそうだ。アンケートには学生が自由に意見を記載する「自由記載」があるが、教員に対する敬意や思いやりの欠如、さらには常識や知性の欠如すら疑う文章が見られる。容貌や洋服のセンスをけなす、教員の人格を攻撃する、講義科目そのものを否定する、教員の能力を否定する、さらには「クソ」「バカ」「ババア」など。学生からの一方的な教員の評価は、誠実でまじめな講義をする教員が正当に評価されない可能性がある。しかも、大学間の競争が激化して貴重なお客様と化した学生をさらにわがままにしているように感じる。良くない評価をされて、過大なストレスを抱え込む教員もいるだろう。

規制緩和が行われる以前、大学はもっと自由でおおらかでアカデミックであった。私の学生の頃を思い出すと、個性的な講義を行う様々な教員がいた。アメリカ帰りで講義をほとんど英語で行う教授がいた。学生は必死で聞き取ってノートに間違った綴りを書き殴っていたが、講義が終わってから辞書で調べてノートを清書した。ほとんどしゃべらず、黒板に書きまくる講師がいた。学生は必死でノートに書きまくった。シラバスなんてなんのその、講義の内容は自分の実験や研究のことばかりという助教授がいた。でも、シラバスに沿った授業よりもおもしろかった。話が聞き取りにくい教員もけっこういた。必死に耳を傾けた。年に1回だけ行う講義の内容はすべて雑談だった非常勤講師もいた。息抜きになって楽しかった。様々な個性をもった教員が、様々な教え方をしていた。「高校とは違うのだ、大学というのはこういうものだ」と学生たちは受け入れていた。どんな授業にもついて行ける学力と知力と柔軟性を持ち合わせた者が大学に進学した。授業について行けなかった時は図書館や自宅で補った。どんな教員でもその分野のエキスパートだと認識し、学生は多少の敬意を払って、教員の講義のレベルに追いつこうとした。今はその逆である。教員が学生のレベルに合わせて講義をするのである。学力や意識のレベルの高い学生に合わせるのではなく、レベルの低い学生に合わせるのである。教員への敬意を払わないのはレベルの低い学生が多く、アンケートに不敬なことを書くのはそういう学生たちである。教員は自然と低レベルな学生に合わせた「受けの良い」授業を行うことになる。

大学改革で大学・学部が増加した結果、本来大学へ進学すべき学力や勉強する意義を持たない学生が増加し、学生のレベルが年々低下している。大学や学部の増加は教員の増加をもたらし、能力不足の教員も増えている。特に新設の大学・学部ではコネ採用が多く、公募をしていても形だけというところが多い。授業評価のアンケートは、「質の低下した学生を上手にあしらうことができる教員を育てる」こと、「能力の低い教員の質を少しでも上げる」こと、「教員の個性を奪い、講義に対する裁量を制限し、プレッシャーをかける」ことが目的になってしまったようだ。

「アンケートを行わなければ一流大学にはあらず」という風潮であるが、私は基本的にはアンケートを行う必要はないと考えている。一流であると自負する大学こそ教員を信じて講義を任せてみてはどうだろうか?ただ、医学部では威圧的で生意気な態度の教員が存在することは確かで、学生の要望を聞けるように目安箱を設置するなどの工夫は必要だろう。