アンケート三昧の大学

 医学部も含めて最近の大学は学生に対するアンケートが多い。前期・後期の講義の終了後に行う授業評

ためのアンケートの他に入学試験の面接官の態度を問うアンケートもある。教員のランク付けのためのアン

ケート(人気投票というべきか)を行っている大学もある。文部科学省規制緩和で大学の設置・運営の自由

度が広がると同時に、自己点検・自己評価が義務づけられ、大学経営の自己責任への転換が図られている

からである。各大学では教員の質を上げて大学の評価を上げるために、様々なことに取り組んでいる。その取り

みの中で重要なのがアンケートである。授業評価アンケートの回答から点数が算出され、各教員は自分の

義の評価がどの程度か知らされる。評価の良かった教員にはボーナスなどの上乗せ、逆に悪かった教員には

ボーナスなどの減額を実施している大学もある。教員の任期制を導入している大学では再任の可否の判定

材料ともなる。

いずれのアンケートも学生側からの一方的な意見である。教員がまじめに教えても、何日もかかって資料を作成しても、学生に気に入られなければ点数が悪くなる。学生受けのするおもしろおかしい講義をすれば点数があがる。米国では、アンケートで高得点を獲得した教員を揶揄して「ピエロ先生」と呼ぶそうだ。アンケートには学生が自由に意見を記載する「自由記載」があるが、教員に対する敬意や思いやりの欠如、さらには常識や知性の欠如すら疑う文章が見られる。容貌や洋服のセンスをけなす、教員の人格を攻撃する、講義科目そのものを否定する、教員の能力を否定する、さらには「クソ」「バカ」「ババア」など。学生からの一方的な教員の評価は、誠実でまじめな講義をする教員が正当に評価されない可能性がある。しかも、大学間の競争が激化して貴重なお客様と化した学生をさらにわがままにしているように感じる。良くない評価をされて、過大なストレスを抱え込む教員もいるだろう。

規制緩和が行われる以前、大学はもっと自由でおおらかでアカデミックであった。私の学生の頃を思い出すと、個性的な講義を行う様々な教員がいた。アメリカ帰りで講義をほとんど英語で行う教授がいた。学生は必死で聞き取ってノートに間違った綴りを書き殴っていたが、講義が終わってから辞書で調べてノートを清書した。ほとんどしゃべらず、黒板に書きまくる講師がいた。学生は必死でノートに書きまくった。シラバスなんてなんのその、講義の内容は自分の実験や研究のことばかりという助教授がいた。でも、シラバスに沿った授業よりもおもしろかった。話が聞き取りにくい教員もけっこういた。必死に耳を傾けた。年に1回だけ行う講義の内容はすべて雑談だった非常勤講師もいた。息抜きになって楽しかった。様々な個性をもった教員が、様々な教え方をしていた。「高校とは違うのだ、大学というのはこういうものだ」と学生たちは受け入れていた。どんな授業にもついて行ける学力と知力と柔軟性を持ち合わせた者が大学に進学した。授業について行けなかった時は図書館や自宅で補った。どんな教員でもその分野のエキスパートだと認識し、学生は多少の敬意を払って、教員の講義のレベルに追いつこうとした。今はその逆である。教員が学生のレベルに合わせて講義をするのである。学力や意識のレベルの高い学生に合わせるのではなく、レベルの低い学生に合わせるのである。教員への敬意を払わないのはレベルの低い学生が多く、アンケートに不敬なことを書くのはそういう学生たちである。教員は自然と低レベルな学生に合わせた「受けの良い」授業を行うことになる。

大学改革で大学・学部が増加した結果、本来大学へ進学すべき学力や勉強する意義を持たない学生が増加し、学生のレベルが年々低下している。大学や学部の増加は教員の増加をもたらし、能力不足の教員も増えている。特に新設の大学・学部ではコネ採用が多く、公募をしていても形だけというところが多い。授業評価のアンケートは、「質の低下した学生を上手にあしらうことができる教員を育てる」こと、「能力の低い教員の質を少しでも上げる」こと、「教員の個性を奪い、講義に対する裁量を制限し、プレッシャーをかける」ことが目的になってしまったようだ。

「アンケートを行わなければ一流大学にはあらず」という風潮であるが、私は基本的にはアンケートを行う必要はないと考えている。一流であると自負する大学こそ教員を信じて講義を任せてみてはどうだろうか?ただ、医学部では威圧的で生意気な態度の教員が存在することは確かで、学生の要望を聞けるように目安箱を設置するなどの工夫は必要だろう。

 

医学部教授になるための条件 その1

医学部というとどんなイメージを思い描くだろうか?歴史と実績に基づいた教育システム、高度で洗練された教育内容、朝から晩まで勉学に勤しむ優秀で礼儀正しい学生、診療や研究に勤しむ医師、冷静かつ頭脳明晰で人格者である教授、といったところだろう。しかし、これらのイメージは間違っている。医学部は数ある学部の中で、最も偏狭で利己主義に満ちた閉鎖的な学部である。

その特殊な組織のトップに立つ教授とはどのような人物であろうか。医学部の教授は様々な学部の中で、最も頭が良くて優秀な人たちであると思われているようだが、意外とそうでもない。業績が多いから優秀だから教授になれるとは限らない。何よりも教授になるために一番大切な条件は所属する講座の教授との年齢差である。教授が定年を迎える頃に、自分が教授に適する年齢であること。教授と年齢が近ければ所属の講座で教授にはなれず、他の大学の教授選に応募しなくてはならない。教授選はどの大学も公募であるが、その大学に所属する者が圧倒的に有利であり、他大学からの応募は相当な業績がないと不利である。教授になれなかった者は、頃合を見て開業するなり、しかるべき地位で勤務医になる。あるいは、看護学科などの他の医療系学部の教授になることもある。この場合は公募ではなくコネ採用となるが、他の教員と比較しても業績などは相当にある場合が多く、医師ということで重宝される。最近の医療系学科の増加に伴って、このパターンは意外と多い。

ところで、医学部の教授選挙というのはどのようなものか。単純に業績だけで選ばれるのではない。根回しが大切である。選挙権があるのは教授だが、教授間には派閥があり、根回しのために相当なエネルギーが必要である。山崎豊子原作の「白い巨塔」という小説をご存じだろうか?TVドラマでは、唐沢寿明が扮する内科の財前助教授が、根回しのために料亭やクラブで教授に接待を行ったり、高価な絵画を贈ったりする場面があった。実際の根回しはどうなのだろう?残念ながら私は経験がないのでわからない。

教授選考の次期は、一般的には教授の退任の数ヶ月前あるいは後より始まる。どの大学も表向きは公募を行う。応募者は一次選考の書類審査でふるいにかけられて、23名が最終選考へ進む。一次選考は、業績と、外科の講座であれば手術件数などで判断される。二次選考は教授会でのプレゼンテーションを行い、教授らの投票によって次期教授が決定される。当該講座の準教授が公募に応募した場合、十分な業績があれば、ほとんど次期教授に決定である。二次選考に残った者が複数いて実力が拮抗しており、彼らの支持者が医学部の対立する勢力であった場合、権力闘争が繰り広げられる。二次選考は応募者の業績というより、支持者の勢力の大きさで決まると言っても良い。

(次回へ続く http://smedpi.hatenablog.com/entry/2014/02/22/225323

医学部教授になるための条件 その2

(前回から続く http://smedpi.hatenablog.com/entry/2014/02/22/175554

  教授になるために大切な第二の条件は運である。教授が新任後に思いもかけず早世してしまう例は珍しくはない。教授選に破れて他の大学に転出した助教授が呼び戻されて、めでたく元の講座の教授に納まったという例がある。棚からぼた餅の幸運の例だが、悲運もある。教授が早世し、その後任として他大学から若い教授が赴任したために、次期教授とみなされ目をかけられていた講師や助教の人生設計が狂ってしまった例。1人の教授を頂点とした講座制ゆえの悲哀が生まれるのである。

  文系や看護などの医療系では講座制ではなく科目担当制を敷いているところが多く、業績と就業年数によって順当に教授に昇進できる可能性が高い。講座制の場合、所属する教員の数は大学によって決まっており、内訳は基本的には教授1人、准教授、講師、助教それぞれ数名である。講師は必ずしも必要ではない。完全なピラミッド構造になっているので、上位の職位の者が辞めなければ位は上がらない可能性がある。いくら優秀で業績があっても出世できないわけである。他の学部ではとっくに教授に昇進しているほどの業績なのに、医学部では10年以上も助教または講師のままという者が山のように存在する。2流・3流の大学の教授よりも1流の大学の助教の方が業績や能力はずっと上、ということは意外と多いのである。

(次回へ続く http://smedpi.hatenablog.com/entry/2014/02/22/230618

医学部教授になるための条件 その3

(前回から続く http://smedpi.hatenablog.com/entry/2014/02/22/225323

 教授になるための第三の条件は、どの組織にも共通することだが、上司に目をかけられることである。決して教授に逆らわず、教授によく付き合い、盆暮れの贈り物を欠かさない。そして、業績がある程度あれば次期教授候補となれる。学問の世界こそ実力が第一、とはいかないのである。次期教授候補選びに無頓着というか、自然に任せる教授もいるが、概ね、教授の退官数年前から講座の人員の整理が始まる。邪魔な講師や准教授を関連病院などに転出させる。状況を見極めて、自ら出て行く者もいる。後継者とされた准教授は教授の後ろ盾を得て教授選に挑むわけである。医学部の教授候補は公募されるので、次期教授と目された者が教授選に負けることもある。原因は業績不足または根回し不足、場合によっては人格にたいするネガティブキャンペーンが原因となることもある。昔は根回しのための資金力がものをいうこともあった。不動産を売って資金をかき集めた例もあったと聞く。このように、医学部の教授選はいわゆる権力闘争の類いであるから、大概の女性には不向きな事で、女性教授が少ないことの大きな理由と言える。

ところで、教授になるための条件に「人格」が含まれるのか気になるところだが、人格が問われることは全くない。これは他学部でも同じであろう。業績が一番重要で、出身大学やキャリア(留学歴や臨床医学系であれば手術件数など)がその次である。留学は概ね半年から3年程度である。日本の医師免許を持っていても海外で医師として働くことはできないので、留学先では主に研究を行う。しかし、医学は日本の方が進んでいる分野が多いので、医師として研究者として学ぶべきことはそう多くはない。留学歴は、特に国公立大学ではキャリアとして大切であるが、教授の必須条件ではない。留学の利点はキャリアに箔が付くことと、英会話ができるようになることくらいである。 

確実に教授になれる方法はある。基礎系講座に所属することである。基礎系講座とは解剖学、生理学、生化学、病理学、公衆衛生学、法医学などの臨床以外の医学分野を担当する講座であり、教員は非医師が多く医師は少ない。基礎系講座といえども「教授は医師」との慣例があり、競争相手が少ない医師はほぼ確実に教授になれる。しかし、多くの医師は臨床を行いたいのである。教授になれるからという理由で基礎系講座を選択する者は少数である。

 

 

 

医学教育と医学生気質

 医学部は6年制である。1年生で語学・生物・物理・化学・心理学などの教養科目を学ぶ。2年生から3年生にかけて解剖・生理・病理などの基礎医学を学び、4年生で内科・外科などの臨床医学を修得する。1年から4年までは病理学などの実習もあるが主に座学である。5年生から6年生前期くらいまで大学病院で臨床実習を行う。6年生後期から卒業までの数ヶ月間は国家試験の準備にあてる。6年間、毎日朝から夕方まで学び(講義の無い日は皆無と言っていい)、年2回(前期と後期)ほとんどすべての講義科目で筆記試験があり、臨床実習に入る前に試験があり、6年生で卒業試験を受けて、最終的に国家試験に臨む。

医学部の授業は、ほとんどが教員から学生への一方通行の授業である。教授の指導のもとで少数の学生が発表や討論を行い学習を進める形のいわゆる「ゼミ」はほとんど存在しない。医学は知識と実践の積み重ねの学問なので、在学中は膨大な量の知識を頭に詰め込むことに費やされる。ゼミという授業形式は必要ないのである。代わりに、3年または4年生の学生を小グループに分けて、「PBLProblem Based Learning)」と呼ばれる学習方式が行われている。各グループに提示された臨床症例などのデータを基にして、学生同士で議論し、診断などの結論に導いていく。各グループをリードするのは教員だが、司会進行を行うのみで学生を指導することはない。他の学部と比べると、教員と学生との交流は極めて少ない。

 こんなハードな生活を送っている医学生はどんな人物であろうか。国公立大学と私立大学では学生の気質は異なるが、前者について述べてみたい。医学部の学生が集団で存在すると、その雰囲気は他学部の学生とは明らかに異なる。男女ともに冷静で理性的な雰囲気で、頭が良さそうな顔をしている。最近はおしゃれな学生も多くなった。女子の中にはモデルや女優かと見紛うほど美しい学生もいる。しかし、偏差値の高い学生全体に言えることだが、エリート意識が高く生意気で我が強い。頭の回転が良く口が達者で、ずるさが目立つ学生も少なからず存在する。素直な学生もいるが少数派である。頑固で素直ではない学生を教えるのは、教員としては少々苦痛である。まあ、放って置いても勉強をするし、理解力も高く、普通に勉強すれば順調に卒業して国家試験も受かるので、大学は学生をほとんど放任している。

 

意外と不真面目な医学生たち

 医学部の出席率は他の医療系学部に比べて低い。出席カードなどで出欠を取った後、教室からこそこそ(時には堂々と)退席していく学生が結構存在する。出席カードの偽造も後を絶たない。欠席していたのに、「たまたまトイレに行っていた」と言い訳して、後から平気でカードをもらいに来る学生もいる。出席日数が足りている学生が、自分の名前ではなく日数が足りない学生の名前をカードに書くという不正も行われている。つまりカードの売買である。 

学校祭や体育祭の前の12週間は出席率が落ちる。学生にとっては授業よりも大切な行事だから、その準備を優先する。前期と後期の終りに近づく時期も出席率が落ちる。出席日数の足りている学生が計画的に欠席するからである。

どの学部でも授業中にパソコンやタブレット端末などの使用は禁止されているが、医学部では多くの学生がこっそり(時には堂々と)使用している。講義資料を取り込んで見ているのならともかく、メールをしたり、インターネットやゲームを楽しんでいる。漫画や小説を読んでいる者もいる。教員は見て見ぬふりだ。特に国公立大学では、授業に欠席しようが授業中に他のことをしていようが試験には受かるので、学生には寛容だ。

 

 

 

卒業生が誰も行かない医学部の「修士課程」

 大学規制緩和以前の医学部では大学院は博士課程のみであった。医学部は修業年数が6年であるから、大学を卒業すると修士相当の教育を受けたことになる。従って、修士課程は医学部には存在しなかった。規制緩和以降、ほとんどの医学部に修士課程が設置された。医学部卒業者が修士課程に進むことはあり得ないので、修業年数が4年の大学卒業者または業年数が4年以上の専学校卒業者などが入学対象となる。大学や専門は問わず、文系卒でもかまわない。入学後は基礎系講座に所属する者が多いが、(心理学を修めた者が精神科学講座に所属するように)臨床系講座に進む者もいる。しかし、当の医学部卒業者が全く入学しない修士課程が医学部に存在することは非常に奇妙で、他の学部ではありえない状況である。

 また、博士課程は医学部においては概ね4年間であり、多くの医学部卒業者が入学するが、他学部の修士課程修了者も多く入学する。23割くらいは他学部出身者つまり非医師である。そして博士課程終了後には「医学博士」となるが、「医学博士」が医師とは限らないわけである。

 「博士」の種類は「理学博士」「農学博士」「薬学博士」など様々あり、どの学部の博士課程を修了したかによって博士の名称が異なる。「医学博士」は聞こえが良く格が高いというイメージを持つ人が多いと思う。しかし、博士の種類に優劣はない。むしろ医学博士は一番チョロイ「博士」ではないかと思われる。

「医学博士」はチョロイ?

「全聾の作曲家であった佐村河内氏は実は作曲していなかった」という衝撃の事実が話題になっている。しかも、聾ではないとのこと。ワイドショーによると、音楽業界ではゴーストライターは珍しくないらしい。実は医学部も似たようなものだ。大学院生の医学博士論文を講師・准教授などが代わりに書くことはよくあることである。ただし、共著として論文に名前が乗るのでゴーストではない。いずれにしても、実力者でなければ誰かの代わりに書くことはできない。

 「医学博士」の取得は意外と簡単だ。ここに現在の医学部大学院の抱える問題点が存在する。一つは大学院生の質の低下である。その原因の一つは医学部出身者と他学部出身者の学力の大きな差にある。特に、国公立大学医学部出身者と私立大学他学部出身者の学力差が著しい。これは医学部の教員なら誰しも抱いているもどかしい思いであろう。大学院入学試験の筆記試験は修士・博士ともに語学試験(主に英語)が主である。どの大学も入学定員が多く、ほとんどの受験者が合格する。大学院生が多いということは大学の評価を高め、学内においては指導教官すなわち教授の評価が高まるので、出身学部を問わず、できる限り合格させる。そのために、試験問題は学力の低い受験者に合わせて易しい問題を出題する傾向がある。しかも、辞書持ち込み可なので相当に良い点を取れるはずである。さすがに医学部出身者は高得点を取る。他学部出身者の中には合格点にはるかに及ばない者がかなり存在するため、定員が満たされていなければ、採点を相当に甘くして底を上げて合格させている。医学部の大学院に合格する者が必ずしも学力が秀でているわけではないのだ。

 大学院入学後はどのように研究していくのか。修士課程入学者には人体の構造・メカニズムや疾患の基礎的なことを履修していない者がいるので、教授らによる医学の講義を、指定された単位受講する。並行して研究も行う。博士課程では、研究を主体にして、講演会や勉強会などへ指定された単位で参加する。大学院生が医師であれば臨床に従事している者が多いので、研究は夜間や休日に行うことが多い。医学部は研究費が十分にあるので(特に国公立の大学では)、研究補助員として非常勤や派遣研究員を多く雇用している。その者たちが大学院生の代わりに実験をし、アンケートの入力や集計を行っている。公衆衛生などの社会医学系(集団を対象として生活環境と疾患の関係を探る医学分野)の調査では、調査自体も人任せであることが多い。社会医学系講座はアンケート調査を研究の主体としているところが多く、実験はできないが「医学博士」を取得したい者にとっては好都合である。看護などの他学部出身者に非常に人気がある。データなどの入力作業は研究補助員が行い、指導教官がデータを分析し、場合によっては代わりに論文を書く。他人任せでも研究結果が出て論文が仕上がる。医学部出身の大学院生すなわち医師は、基礎系よりも臨床系講座に所属する者が圧倒的に多いが、研究のために一時的に基礎系講座に所属することもある。診療が終わってから、あるいは、自身の診療のない日や休日に実験などを行わなければならないので時間的余裕がない。そこで、研究補助員が代わりに実験を行う。論文を書く時間的余裕が無い者に対しては、指導教員が代わりに論文を書くこともある。つまり、「医学博士」は簡単に取得できる「博士」だということだ。

大学院生の質もさることながら、研究レベルの低下も医学部大学院の抱える問題点である。世界トップレベルの研究と低級な研究に二極化している。本来大学院への進学は、大学で熱心に勉学に励んだ者がさらにもっと勉強したい、興味のある分野で研究をしてみたいという強い思いで進むものであった。世界で一番良い研究を、世界で誰もしていない実験をしようと、夜遅くまで実験室や研究室でがんばっていた。生活のためにアルバイトをしながらも、大学院優先で、アルバイトはなるべく必要最小限に抑えていた。ところが今は、「医学博士」の安易な大量生産で研究テーマが干上がっており、研究内容は重みのないものが多い。しかも実験は他人任せで、論文も書けないという状況だ。学位論文を仕上げた後は教授数名による論文審査が行われる。研究内容や論文に関する口頭試問であるが、どんなにできが悪くても論文審査で不合格になることはない。審査自体が儀式と化している。

 大学院に進学する医師と他学部出身者の動機の違いは大きい。医師の場合は、「純粋に研究をしたい、医学をもっと勉強したい、教授になりたい、将来開業するときのためにステータスを高めたい」などが主な動機であろう。「なんとなく」あるいは「教授に勧められて仕方なく」という者もいるであろう。他学部出身者の場合、なぜ自分の専門分野ではなく医学部を選ぶのか。医学に興味があるからというよりも、「医学博士」という肩書きの社会的ステータスの高さに憧れて入学する者が多い。「研究費が豊富で楽に博士を取得できるから」という考えの者もいる。

平成22年度の文部科学省の「学校調査」では、医学部単独でのデータは示されていないが、全学部の大学院の博士課程入学者のうち40歳以降の者の占める割合は11.5%、50歳以降でも4.2%と予想外に高い割合を示している。意外と知られていないことだが、医学部博士課程入学者の中には4050代の他大学他学部の教員が存在する。すでに教員となっている者がなぜ医学部の大学院に入学するのか。二流・三流と思われる大学には「博士」を取得していない教員が存在する。特に新設ラッシュが続く看護などの医療系学部に多いが、理系・文系にも存在する。研究のための時間が取れない教員にとっては、楽に取得できる「医学博士」は魅力的である。また、「医学博士」の取得はキャリアアップに有利だと思われており、大学の教員を目指して医学部博士課程に入学する社会人も存在する。

 私は多くの大学院生を見てきたが、医師は基本学力・研究の理解力・データをまとめる力が優れているし、男女ともに体力もある。大学の規制緩和以前は大学院生の数はさほど多くはなく、ほとんどが医師であった。徹夜で実験をしたり、当直明けでもがんばっていたり、良い研究をしていたように思う。今は「医学博士」の大量生産と、それに伴う質の劣化が起こっている。いずれにしても、「医学博士」のステータスが高いなんて幻想である。

 

 

 

 

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医学部は論文ねつ造が多いのか?

 報道される記事を見る限り、研究の不正は医学部に多いように感じる。次の2例は、多額の資金を使い、複数の大学で多数の研究者が関与した研究で起こった重篤な事例である。

2014110日、臨床研究「J−ADNI」を巡り、不適切な患者のデータが含まれているとする内部告発があり、厚生労働省は調査を開始したことを明らかにした。J-ADNIはアルツハイマー病の早期発見を目指し全国38の医療機関が参加する国家プトジェクトである。2007年に発足し、国の公的資金30億円以上を費やしてきた。この件に関して、厚生労働省内部告発者保護法に違反するような行動を取っていた。20131118日、厚生労働省に届いた告発メールを担当専門官(医師)は、実名入りのまま無断でJ-ADNIの代表研究者である東大の岩坪教授に転送。岩坪教授は、「問題はなかった」「知らなかった」などど発言し、告発者のことを「妄想チックになる激しい人」と評し、プロジェクト外の研究者にも「グループ内の一人の不満や極端な話」と釈明メールを送っていた。告発者の名が業界内で知られてしまい、告発者は「私が悪者で研究の信頼性を損なわせたという評価が研究者の間に広まった。名誉毀損だ。厚労省は疑惑をもみ消そうとしているのでは」と反発している。(朝日新聞 2014121日) しかも厚生労働省は、中立な調査ができるとは思えない当事者である東大に調査を依頼したのである。

20134月「降圧剤バルサルタンの臨床試験を巡る京都府立医大の論文撤回問題で、松原弘明元教授(20132月末に辞職)のチームが、201112年に海外の心臓病専門誌2誌に発表した臨床試験の関連論文3本が、いずれも撤回されていたことが分かった。大学が取材に明らかにした。大学によると、元教授のチームがこの薬の効果に関して発表した論文は計6本あり、既に撤回が判明していた3本を含め、全てが撤回された。3000人の患者対象の大規模臨床試験の結果が、何ら論文として残らない異例の事態となった。撤回が判明した3本は、米国とアイルランドの心臓病専門誌に発表されていた。冠動脈疾患や慢性腎臓病などのある高血圧患者に対するバルサルタンの効果を検証した内容。掲載誌は撤回の理由を明らかにしておらず、大学も「理由は把握していない」としている。チームは08年、試験の実施要綱を論文にして英医学誌に発表。この論文には、薬の販売元の製薬会社「ノバルティスファーマ」の社員が、統計解析の責任者として名を連ねていた。だがノ社名の記載はなく、この社員の所属は兼任する「大阪市立大」となっていた。また、ノ社が08年以降、元教授の研究室に1億円余の奨学寄付金を提供していたことが毎日新聞の報道で表面化している。元教授は、今年1月までの大学側の調査に「データ集計のミス」などと説明してきたが、単純ミスなら撤回せずに修正で対応するのが一般的とされる。」(毎日新聞 2013 420)

さらに、514日の記事では「松原弘明元教授が、統計解析に関与した薬の販売元「ノバルティスファーマ」の社員の名を論文に出さないよう、部下に指示した疑いがあることが、関係者への取材で分かった。ノ社とのつながりを隠蔽するためだった可能性がある。大学や日本循環器学会も同様の情報を把握しており、調査している。同チームの論文は、血圧を下げるだけでなく、脳卒中狭心症も抑える効果もあると結論付け、薬のPRに大々的に利用されてきた。研究チームは、臨床試験の実施要綱をまとめた2008年の論文で、ノ社は試験の設計やデータ解析などに無関係だと記し、統計解析責任者2人のうち1人の所属を「大阪市立大」としていた。この人物は、同大の非常勤講師を兼務するノ社の社員だったが、社名は明かしていない。チームは2009年に試験結果をまとめた論文を発表。これには社員の名は記載しなかった。関係者によると、この社員は試験の打ち合わせに出席、統計処理にも関わっていた。しかし松原元教授は部下に対し、論文に社員の名前を出さないよう指示し、社員の関与も他言しないことを求めたという。これらの点について、松原元教授は弁護士を通じて毎日新聞にコメントした。論文に社員名を出さないように指示したり、社員の関与を口止めしたりしたことは「ない」と否定した。2009年の論文は、ノ社によるバルサルタン(商品名はディオバン)の宣伝に使われてきた。一方で、ノ社は松原元教授の研究室に5年間に1億円余の奨学寄付金を提供していたことも分かっており、研究自体の正当性やノ社の関与を疑問視する声が、関係する学会などで高まっている。バルサルタンの臨床試験は、東京慈恵会医大、滋賀医大、千葉大、名古屋大でも実施。いずれもノ社の同じ社員が関与していた。」(毎日新聞 2013 514)

J−ADNIはそのメンツにかけて研究の仮説通りの結果を出したいがため、バルサンタンの場合はノ社の思惑通りの結果を出したいがために、一部の研究者が不正を行ったわけで、組織的に行っていたわけではないと思われる。だが、いずれも組織の体制とデータ管理がいい加減だったのは確かだ。問題発覚後の事後処置もお粗末である。医学部という組織は、実はいい加減で大雑把でだらしがないところがある。緻密で几帳面なことが苦手である。医師は大学の業務や診療で毎日が忙しく、連絡調整や事務的な作業はおろそかになってしまう。私は医学部の大雑把なところは好きなのだが・・・

これ以前の2011年と2012年に公表された論文のねつ造事例をネットで検索すると、個人的な論文不正ばかりであるが、医学部だけで7件引っかかる。琉球大学・教授、山形大学・教授、名古屋市立大学准教授と教授、大分大学講師、独協医科大学教授、東京医科歯科大学助教東邦大学准教授である。一人で多数の論文をねつ造するケースが多く、名古屋市立大学は19本、独協医科大学10本、東京医科歯科大学3本である。東邦大学准教授(麻酔科)にいたってはなんと172本で、日本麻酔科学会によると世界最多だそうである。外国の麻酔学の学術誌に英国の専門家が20122月に投稿した準教授の論文に関する評論が発覚のきっかけとなった。毎日新聞20125.23日配信の記事によると「19912011年にこの医師が実施したとしている約170件の試験データを統計学的に分析した結果、試験対象者の年齢、体格、血圧などの傾向が特定の範囲に集中し、平均的な分布と大きく異なって、本来あるはずのばらつきがなかった。評論は、こうしたことはほぼありえないとしてデータの正しさに疑問を呈した。その後、複数の学術誌がデータねつ造や改ざんを示唆した。」とある。それにしても、20年間172本ものねつ造が発覚しなかったのはなぜか?

 普通は論文の筆頭著者は執筆者であり、2番目以降の著者は研究のどこかの段階で関わりを持った人々である。共著者の最後は所属する機関の長または研究の総括者である。医学系の論文は共著者が多いが、この准教授の論文を検索すると、単独または所属機関の長(教授)との二人での共著がほとんどである。教授が実際に研究に関わり教員の論文を精査することはないので、ほとんどの研究・執筆は1人で行っていたのであろう。共著者が多ければ、ねつ造が発覚する機会は早期にあったはずである。

毎日新聞によると「藤井医師は不正論文のほとんどを一人で書いたとみられるが、著者には他大学の研究者や医師の名前が連なる。計55人に上る共著者の多くは、その事実を藤井医師から知らされておらず、結果的に不正に加担したことになった。学会は「論文で紹介している実験はとうてい一人でできるものではなく、複数の機関の複数の著者を入れることで、疑われた時に弁解ができるようにしたのだろう」と推測する。通常なら論文の表紙には著者全員の自筆サインが必要だが、藤井医師が偽造していた可能性もあるという。共著論文の多くに名前を連ねた藤井医師の上司について調査委は「関与しなかったとはいえ責任は重大だ」と指摘。上司は毎日新聞の取材に「話すことはない」と答えた。投稿先は、麻酔学だけでなく多分野の40以上の専門誌。投稿先を使い分け、一つの雑誌に投稿が集中し疑われることを避けたと見られる。「あたかも小説を書くごとく研究アイデアを机上で論文として作成した」調査報告書はこう結論づけた。 

また、ねつ造とはいえ172本もの論文を筆頭著者として書いたことにも驚く。年に平均8.6本のペースである。この医師は麻酔科医としての診療の合間に書いたことになるが、毎年1本ずつ書くだけでも大変なのに、常識ではあり得ないハイペースである。一般的に論文は、筆頭著者ではなく共著者であっても業績として認められる。この医師は一体何のために論文のねつ造を続けたのだろうか?「昇進して教授を目指していたのではないか。」2012829日の会見で、調査特別委員長の澄川耕二・長崎大教授は捏造の動機をこう分析した。准教授であるから教授を目指していたのは間違いないであろう。教授選は業績だけで決まるわけではないが、多いに越したことはない。特に、他大学の教授選に打って出る場合は、公募している大学の出身者に比べて不利であるから、業績は需要な武器となる。医学部の教授選ではかなりハイレベルな論文数と質が要求されるので、手段を選ばず論文をひたすら増やすことにまい進してしまったのであろう。医学部の教授が狭き門であることの悲劇と言いたいところだが、あまりにも倫理観が欠如していた。

ねつ造を見破るのは至難の業である。公にされるねつ造は氷山の一角かもしれない。研究は思い通りには進まないし、いつも良い結果が出るとは限らない。でも、論文を仕上げなければならない時に、誰しもデータを改ざんしたくなる衝動に駆られる。予想した結果が得られなかった時に、若干罪の意識はあるものの、「これくらいならいいだろう」と都合の悪いデータを削除したり、少しデータをいじってみたりすることはあり得る。データの不自然さを誰からも指摘されなければ(レベルの高い雑誌では、投稿された論文の内容に対して複数の専門家がチェックを行い、その雑誌にふさわしい論文がどうかを判定する)、ねつ造に味を占め、やがて慣れてしまう研究者もいるのだろう。ひとつの研究に関連して、複数の論文が生まれることが多いが、一旦ねつ造されたデータは修正されることはなくそのまま使用される。そしてねつ造の連鎖が止まらなくなり、ねつ造論文が多数出来上がることになる。

教授から助教まで、なぜねつ造してまで論文を増やそうとするのか。それは教員の評価が論文偏重だからである。特に、論文の「質」よりも「量」を重んじる傾向がある。数年に一編質の高い論文を書くよりも、毎年論文を書いて論文数を増やすほうが高い評価を得られるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

増加する女医とガラスの天井

 

平成22年度における女医の割合は全体で18.9%だが、29歳以下に限ると35.9%であり、年々増加している。どの職種にも言えることだが、女医が結婚して妊娠すると、出産と育児のために一時的に休業する。その後復職する場合もあるが、退職して他の職場へ移動したり、常勤ではなく非常勤に変更になったり、男性医師が決して経験しないような働き方の変更を余儀なくされる。復職した場合も、男性と同じ業務をこなしながら家事・育児を行うわけで、その大変さは一般の会社員の比ではない。病院では夜間・休日の当直があり、看護師のように交代勤務ではない。勉強会や会議は17時以降に行われることが多く、手術が長引いたり急患が入ったりして、定刻に帰宅することは稀である。大学病院には保育所が併設されているが、看護師などの医師以外の医療職が優先で、収入が高い医師は後回しにされることが多い。既婚の、特に子育て中の女性医師のハンディキャップは相当なものである。

しかし、実は女医の婚姻率は低く、2001年度に山梨医科大学が卒業生を対象に行った調査では、40歳代前半の女医の未婚率は約70%であった。当時の国勢調査の同年代の女性の未婚率の約10倍である。では、未婚者が多い女医は大学に残ってバリバリ研究をしているのだろうか?

最近は教員の数や構成をウェブ上で公開している大学が多い。日本で唯一の女医の養成機関である東京女子医科大学でも、医学部の専任の女性教員の割合はわずかに37.1%(平成24年度)である。職位ごとの割合は、助教41.5%、講師33.6%、准教授で大きく下がり22.4%、教授17.7%と位が上がるにつれて女性の割合が減少している。専任ではない非常勤講師の女性の割合は51%である。明治33年に東京女医学校が創設され、昭和27年に大学が開設された長い伝統を持つ大学で、多くの女医を輩出しているのに、この割合である。これらの数字から、たとえ女子大学であっても、医学部で女性が生き残っていくことは、いかにハードルが高いかわかるだろう。

当然のことながら、男女共学の一般の医学部では女性教員はさらに少ない。例えば、岐阜大学医学部では12.5%(平成23年度、附属病院を含まない)、山形大学医学部は20.7%(平成21年度、附属病院を含む)である。女性教授の数は、各医学部のホームページを調べると、概ね03名程度である。女医の数が少ないとはいえ、他学部と比較すると格段の少なさである。

医学部は男性優位の職場であり、特に臨床においては男性医師の体力や生活に合わせた勤務体制を取っている。まず、夜間や休日の当直明けは通常勤務であり、看護師のように交代勤務ではない。外科系講座に所属すれば、長時間におよぶ手術があり、体力的にきつい。診療の後に会議や勉強会があり、講義の資料作成や研究のための時間も必要で、帰宅時間が遅くなる。学会などの出張も多い。教授ともなると、会議・大学の雑務・講演会・出張などで、さらに多忙である。相当な体力と長時間の職務に専念できる生活環境が必要で、男性に比べて体力的に劣り、家事・育児・介護などの家庭での雑事が多い女性にとっては、大学に残り男性と同じ土俵で出世していくことは非常に厳しい。

臨床系・基礎系の講座を問わず、同じような業績・キャリアであれば、男性が必ず先に出世するし、たとえ女性のキャリアが上でも、男性の出世が優先される。だから女性教授が極端に少ないのである。正に「ガラスの天井」である。「ガラスの天井」とは、ガラスを透して頭の上のトップの座が見えているのに、そのガラスが天井となってつかえている状況を示し、実力がありながらトップに上ることができない女性に対して、アメリカでよく使われる言葉である。

医学部が特殊な社会であることを女医はよくわかっている。出生街道に乗ることなく大学を去る人が多い。

北海道で2例目の心臓移植が行われた。日本初の心臓移植「和田移植」の46年後であった。その裏側で行われた責任転嫁。

 201416日、北海道大学病院(札幌市)循環器外科は、関東地方で頭部外傷のため脳死と判定された成人男性の心臓を20代男性に移植する手術を行った。北海道で心臓移植が行われたのは2例目であるが、1例目は45年前の1968年に札幌医科大学第二外科(胸部外科)で行われた。日本の脳死移植医療の発展を阻んだ元凶といわれる移植手術であった。

 この時の執刀医であったのが教授である和田寿郎である。移植を受けたのはリウマチ熱で心臓病を患い札幌医大病院第二内科に入院していた18歳の宮崎信夫。心臓を提供した、すなわちドナーは小樽の海岸で競泳中に溺れ、蘇生のために札幌医大病院に運ばれた21歳の山口善政であった。宮崎は移植後83日目に急性呼吸不全で死亡した。この国内1例目の心臓移植手術は殺人と言われても仕方のない多くの疑問点があった。実際、和田は1969年に殺人で告発されたが、翌年、嫌疑不十分で不起訴となった。要点は次の3つである。①山口が脳死ではなかった、②宮崎の心臓が移植を必要とするほどの最悪の状態ではなかった、③宮崎の死亡後、脳波や血圧などの記録が全く残されておらず、わずかに残っていた資料には改ざんが認められた。また、宮崎から摘出され病理検査に回された心臓の弁はすべて切り離され、その弁の一部は他人のものであった。つまり証拠隠滅を図ったことである。③の脳波の記録であるが、当時、山口の脳波などの測定を一人で担当していたとされたのは第二外科の研究生であった門脇裕医師であった。捜査を行った札幌地検の報告書には、高圧酸素室で山口の用手呼吸を行っていた門脇医師が「心停止で脳波を取ったが平坦で、体外で心臓マッサージを止めると心臓が止まり、もう駄目だ」と言ったため脳死と判断した、という和田の供述が記載されている。さらに病理検査に回された心臓の弁をくり抜いたのも門脇医師だとされている。第二外科の医師団の供述は、和田と通謀したかのように門脇医師に責任を押し付けるものであった。実際に口裏合わせを頻繁に行っていた。(「凍れる心臓」 共同通信社会部 移植取材班編著 共同通信社 1998年)

 なぜ門脇医師に責任を押し付けたのか?門脇医師は反発しなかったのか?できなかったのである。彼は宮崎が死亡した1029日から77日後の1969115日に、31歳の若さで胃がんのため病死したのである。殺人の告発を受け札幌地検が捜査を開始したのはその5ヶ月後である。門脇医師は高圧酸素室で用手呼吸を行っており、山口の心停止の判定を行うのに最も近かった医師で、責任を押し付けるのに格好の存在であった。捜査の結果、高圧酸素室内にいた門脇医師が、同時に外にある脳波計と心電図計を観察することはあり得ないことが判明し、和田らの供述の信憑性が疑われた。結局、ドナーである山口がすでに脳死であったのか、心臓摘出によって死亡したのか、いずれの証拠も得られなかった。殺人を証明する鍵を握っていた門脇医師の死亡によって「死人に口なし」となったわけである。門脇医師が生きていたらどう証言しただろうか。おそらく、山口が脳死であったと供述したであろう。医師団すなわち医局員は和田の意向にそって口裏合わせをせざるを得ない状況に置かれていたのであり、医学部の教授というのはそれほどの権力を持っているのである。そして、ほとんどの医局員はそのような状況に慣れてしまっている。

 悲運であった門脇医師に対して、和田はその後も強運な人生を歩んだ。これほどの事件を起こしても当時の医学界は和田をかばい、札幌医大を辞職した後、東京女子医大の教授として迎えられた。ここでもいろいろな軋轢があったものの定年まで勤め、20112月に88歳で没した。死の数年前には札幌医大で講演も行っている。和田はなぜ心臓移植を日本で最初に行わなければならなかったのか?その著書「ゆるぎなき生命の塔を」で、アメリカ留学中の同僚であったバーナード医師が1967年に南アフリカで世界初の心臓移植手術を行ったことで、自身は手術には批判的であったが、「先を越された」という感想を持ったと述べている。 

和田は30代で札幌医科大学の教授に就任し、移植当時は40代半ばの若き教授であった。和田の父も北海道大学の教授であり、和田自身も北海道大学医学部を首席で卒業している超エリートである。札幌医科大学は地方の公立大学であり、国立の北海道大学医学部に比べて格が落ちる。北大に対する対抗心もあったのではないかと思われるが、和田のプライドが命の倫理よりも功名心を優先したことは確かである。 

現在ではすべての医療行為は、原則としてインフォームドコンセント(説明と同意)に基づいて行われており、脳死の判定も厳格になっている。従って、殺人を疑われるような医療行為を組織的に行い、その責任の一端を病死した若き医師に押し付けるような非情な行為が起こることはないであろう。しかし、医療機関で過失が起こった場合、上司が部下である医師に責任転嫁することは今でも起こり得るのである。   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東京女子医大の業務上過失致死事件のもう一人の犠牲者

 

 和田寿郎は札幌医大を退職した後、東京女子医科大学に教授として迎えられ定年を迎えた。北海道で2例目の心臓移植が行われた。日本初の心臓移植「和田移植」の46年後であった。その裏側で行われた責任転嫁。 - 医学部教員の独り言

  その女子医大で起こった医療過誤について述べてみる。

  2001年に東京女子医大付属病院で起こった心房中隔欠損症の12歳の女児が死亡した事件で、二人の医師が証拠隠滅罪と業務上過失致死罪に問われた。当時の新聞各紙を要約すると次のとおりである。

 手術中に心臓をほぼ停止状態にするために、血液を体外のポンプや人工肺を通して循環させる人工心肺装置を使用する。の際、装置を担当していたS医師の操作ミスで血液がうまく循環せず脱血不良となり、少なくとも1520分間、血液の循環がストップした。女児は脳死状態に陥り、手術から3日目に死亡した。手術の担当医は両親に対し「人工心肺からの離脱に時間がかかった」として、装置のトラブルや、それによって引き起こされた脳障害の事実を説明せず、死因は「心不全」とされた。不審に思った両親は病院側に調査を要請。同病院が原因調査委員会を設置して担当医らから事情を聞いた結果、操作ミスが判明した。さらに、担当医は診療記録を一部改ざんしたうえで、遺族に「手術自体はうまくいった」と事実と異なる説明をしていたことも判明した。この執刀医は遺族の墓参りに訪れた際に、隠蔽の理由について「(手術に関係した)後輩医師を守るためだった」と説明したという。20026月、医療事故を隠すためにカルテ等を改ざんしたとして担当医が証拠隠滅罪で、人工心肺装置の操作ミスが脱血不良の原因であるとされS医師が業務上過失致死罪で逮捕された。担当医は2004322日に懲役1年執行猶予3年の有罪判決が確定。S医師は2009327日に無罪が確定し、「死亡原因と医師等の行為との間に因果関係はない」とされた。患者の死因である上大静脈の脱血不良は、「脱血カニューレの位置不良」であり、それが原因で循環不全が起こり、頭部がうっ血し致命的な脳障害が起きたとされた。この「脱血カニューレの位置不良」は、人工心肺装置を操作していたS医師の行為に起因するものではないため過失はないとされた。 逮捕・起訴から6年以上たっての無罪確定であった。

日経メディカル20113月号のインタビューによると、S医師は留置所で45日間を過ごし、逮捕により大学を追われ、保釈金のために2,000万円もの大金をかき集めなければならなかった。保釈の条件が「関係者に会ってはいけない」という内容だったので、30代の医師としての伸び盛りの時期に学会にも行けなかった。S医師は大学側のでたらめな調査報告書に対して、その撤回と謝罪を求めて2007年に訴訟を起こしており、201118日に和解が成立した。内容は大学が「衷心から謝罪」し、報告書に誤った記載があったことを認め、200万円の賠償金を支払うというものであった。結局、大学が患者の死の責任を一人の医師に押し付けたことを認めたことになる。S医師は人生を大きく狂わされ、小児循環器外科医としての夢も断たれてしまったが、200912月に開業し、新たな人生を送っている。

 手術の担当医が証拠隠滅の罪に問われるのはやむを得ないが、S医師は業務上過失致死という重い罪に問われたのである。病院の調査委員会がいい加減な調査を行って誤った結果を導いたのか、あるいは、S医師の操作ミスが原因ではないことがおおよそわかっていたが責任をなすりつけたのか。いずれにしても、大学側は責任を若い医師に押し付けたのである。おそらく大学側に良心の呵責は生じていなかった。なぜなら、これが医学部の体質だから。カルテの改ざんも珍しくはなかったのかもしれない。